長崎 軍艦島 出島 眼鏡橋 グラバー邸

小学校の修学旅行以来訪れていなかった長崎を家内と2人で訪れました。

今回は、グラバー邸、オランダ坂、眼鏡橋、出島、夜景、そして天気がよければ
軍艦島への上陸を予定しています。

今回の最初の発見は、路面の便利さです。あらかじめ1日乗車券を購入しておけば
乗り降り自由なので、さるきまわるのにぴったりです。
私たちは、モバイル1日乗車券を利用しました。

長崎市内の移動に便利な市電
長崎軌道株式会社
   ↓

http://www.naga-den.com

グラバー邸周辺

ブラバー邸をはじめとする洋館が集まるグラバー園は坂道が多いのですが、
エスカレータや動く歩道ができており、登るのがずいぶん楽になっていました。
(前回訪れた40年くらい前と比較して。。。)

坂の上の洋館からは、長崎らしい街並みを見下ろすことができます。

洋館を利用した喫茶店の窓からも港が一望でき、巨大なクルーズ船が停泊している
のを確認することができました。

海外文化との交流の痕跡があちこちに残っています。
日本初のテニスコートには、地面をならすローラーが置いてありました。

オランダ坂

なんとなく異国情緒を感じるオランダ通りを進んでゆくと、

山側に綺麗な石畳の坂道が出てきます。
そこがオランダ坂の入り口です。

坂の上から見下ろすとこんな感じです。
結構きつい坂であることがわかります。

というわけで、一緒に行った家内から ”もう登れない〜” 宣言が
出てしまい、”オランダ坂”の石碑まで来たところで引き返すことにしました。
二人で さるきまわっているときは、相手のペースを尊重することも大事ですので。

次回来た時は、オランダ坂を向こう側まで通り抜けたいと思います。

出島

出島というと、教科書で習った扇形の島ですが、実際はどのくいの大きさでどのような暮らしだったのか?
そもそも、どこが出島だったのか? 市電で出島駅を目指します。 今は陸続きなので見逃さないように、
明らかに時代錯誤な建物の屋根が見えます。That’s it!

看板が私たちを誘っていますので早速入りましょう。
出島の広さは、想像より広く、無駄がないという点では狭い
という印象です。

和、洋、がこの空間に混在しています。

洋館の中はこんな感じです。

ここで誰がどのような話をしていたのか。
想像を巡らせるしかありません。

どんなBIGビジネスが行われていたのでしょうか?

出島の【公式】サイト 
    ↓

https://nagasakidejima.jp

長崎の卓袱(しっぽく)料理

一般に一人1万円位のコースを予約して多人数の会食で、、と言うイメージの
卓袱料理ですが、おひとり様用に5千円くらいで食べられる
カジュアルなお店もあります。

家内と2人で、混みそうな時間帯をちょっとずらして早めに入店しました。

長崎に来たら如何に卓袱料理を食べなければならないかを道すがら、
力説して言い聞かせていたはずなのですが、家内は、あっさり自分が食べたい
和風定食を注文。

2人でさるきまわるときは、相手のペースを尊重することが大切ですので。。忍忍(ニンニン)

私は、おそるおそる、店員さんに ”あの〜、しっぽくって一人分でも注文できますか?”

”はい、大丈夫ですよ。こちらのメニューからお選びください”

”ヨッシャー!!”

長崎で、卓袱料理という夢がまた一つ叶った瞬間でした。
江戸時代から国際的な長崎のおもてなし料理の卓袱、
私には、おせち料理と、トロトロの角煮と、柔らかい餅入りぜんざいが
一堂に会するイメージです。
お腹いっぱい、卓袱おいしかった、満足の一言。

そういえば、卓袱料理はおもてなし料理、対応してもらった店員さんは
とても感じがいい人で、初めての卓袱料理におじけづいていたことも、
食べる前のカミさんのメニューの裏切りや、一人分でも注文できるか?の心配も、
全て忘れて家内と2人で長崎の食事を楽しむことができました。

食後は、腹ごなしに稲佐山公園に向かいます。
2月なので山の上はさすがに寒く写真を撮って早々に下山しました。
近くに展望レストランもあるのですが、もう腹ごしらえは済んでいますので。

明日は、早起きして軍艦島に上陸を試みますので、今日はホテルに戻って休みます。

出発前から予約していた軍艦島ツアーですが、必ず上陸できるとは限りません。
天候により船が欠航することもあります。また出港しても、波が高いと接岸できずに引き返してくることも
あるようです。 お天気も、波も自然現象なので、くよくよしても仕方ありません。

おやすみなさ〜い。

おはようございまーす。

おーっつ 快晴です! さっそーく 出発!

上陸します。

軍艦島には、見学用の通路があり、手すりで囲まれていて
危険な場所には立ち入れないようになっています。
所々に広場があり、そこでガイドさんから説明を聴いて
風景を写真におさめることができます。

ここは、もともと海底炭鉱の入り口で、当時の日本の産業を支えるため
多くの人が住んでしました。 昭和49年(1974年)の炭鉱閉山以降
無人の島となり、島全体が昭和の生活のタイムカプセルになりました。

次の写真の右側の新しい足場のようなものができているところが
炭坑への入り口です。

家族と産業を担う男たちがここから炭坑に入ってゆきました。

次の写真は、潮風で風化していますが、昭和の団地を彷彿とさせる集合住宅です。

次の写真で、中央右側の柱が並んでいるところは、石炭を運ぶベルトコンベアが
あった場所で、柱はベルトコンベアの橋脚です。

私たちのガイドをしてくれたおじさんは、子供の頃この島に住んでいた人で、
この島が華やかだった時のことを語ってくれました。

軍艦島が炭坑を閉山した昭和49年は、私は10歳でしたが、
ガイドのおじさんの話では、家電品も揃っており当時の
私の生活とさほど変わらないように感じました。

島の端っこの方にある、子供の頃よく遊んだというプールの場所を教えてくれました。
プールの底の白線が残っているのがわかります。

時間と空間の密度の高さに圧倒されながら、離島の時間になりました。

今日は、波も穏やかで帰りの船は軍艦島を1周して帰港しました。

陸上からでは立ち入れない集合住宅群が海からはよく見ることができます。

次の写真を見ていただくと、この ”羽島” が ”軍艦島” と呼ばれる理由が
わかると思います。

軍艦島上陸クルーズ
やまさ海運株式会社のホームページ
     ↓

https://www.gunkan-jima.net

きょうは、まだ眼鏡橋も さるきまわります。 

眼鏡橋

石段を下り川岸の小道に入ると周りの喧騒から切り離され川の音だけが
石垣に反射しています。

長崎といえば、明治生まれの祖母の話を思い出します。
私の祖母は長崎県出身でしたので、眼鏡橋の話がよくでてきました。


佐世保で和文タイプの仕事をしていた祖母は、
そこで当時の海軍の祖父と知り合い、
当時としては珍しい恋愛結婚だったようです。
祖母曰く、
”白い制服がかっこよかった” そうです。
結婚してからは、
”布団のあげおろしや掃除・洗濯、何でも自分でできる人だったので、
ほとんど手がかからなかった” ようです(笑)。

眼鏡橋を訪れている、幅広い年齢層の人々を見ていると、
祖父と祖母も2人でここを訪れていたに違いないと思えてきます。

長崎の人にとって、とても大切でいつの時代でもトレンディーな場所
なのだろうと思います。
なので、何歳になっても眼鏡橋の思い出は忘れなかったのでしょう。

天気も良く、水面も穏やかなので、眼鏡橋が
”丸メガネ” らしく見えました。

天気にも恵まれ、たくさんの楽しい経験や思い出ができた長崎ですが、まだまだやり残したことが
たくさんあります。 

”次回は、ここにも行きたいね..”と、家内と再び長崎を訪れることを約束して羽田に向かいました。

スポンサー広告
>ホームページにもどる

ホームページにもどる